2009年3月20日金曜日

「天北の雪焔」(雪山に生きて・・・)

「芳賀北雄三十三回忌追悼法要」(私小説)

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 「ほぉーい」大きな叫び声が厳冬・極寒の山合いの斜面にこだまする。叫び声の主は芳賀北男。大正十年生まれ元近衛師団少尉である。時は昭和三十三年正月。悲惨を極めた大戦の傷跡が徐々に修復され憐れな記憶を押しとどめて人間の本質的な心の時代を築こうと日本の国全体が大きく動き出した頃。その年の正月行事が一段落して飾り納めも終えた三日後の早朝。厳寒の天北の山間に北男が伐り倒した高さ二十メートル超、円周二メートル以上の蝦夷松の大木が白銀の山の斜面に大きな弧を描き倒れた。大木が倒れるドド~ンと鳴る地響きとともに大きな衝撃が白銀の雪面を裂く。山の斜面は衝撃で舞い上がった雪が雪の焔となって辺りを覆う。雪焔は氷点下二十度を越す冷気のなかでダイヤモンド・ダストに変わった。一帯を眩き煌めきで覆い尽くした。幻想的な美しさは瞬時に失せるが山で生きる男たちに自然の美の極みを魅せてくれる。その刹那の雪焔がもたらした壮大な自然美は厳寒の山中に生きる"やまご"だけへの山の神からの恵みでもあった。
 北男の近くで同じ伐採作業をしていた同僚の山路信夫は煌めくダイヤモンドダストの消滅するさまを眺めながら北男の木を切り倒す速さを目の当たりにして感心し脱帽した。煌めきが雪上に還り行く向う側に北男が木の枝打ちのために動く姿を見て「少尉殿今年も一番声であります。流石であります。」と手を振って笑いかけた。北男はそんな信夫に軽く手をあげて応えながら斜面の雪の中に横たわる大木の上を飛ぶように移動し枝打ちに取り掛かった。背に枝うち用の長さ一メートルに満たない手鋸を背負い。その鋸鞘の両面に墨書きがあり片面に天照大神(あまてるおおみかみ)、天武天皇(てんむてんのう)と記しもう一方の片面に舎人皇子(とねりおうじ)改、崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)と記しさらに大国主諸神とも記してあった。これは"やまご"が各々のお気に入りの神の名を記してその鞘にうかっりと腰掛けたりすることが無いようにいわゆる"おまじない"的な意味合いなのだろうか。北雄の鞘にはそう記されていた。北雄の他の鋸のすべても同様に記してあった。それほど"やまご"は鋸という道具を崇めて大事にしていた。古来より武士が刀を崇めたのと同じように。したがって最良の仕上げに鑢(やすり)をかけ切れ味鋭く保つ事に多くの時間を費やす。またその鑢(やすり)がけで鋸の歯を一つ一つ丁寧に研ぐ行為自体にも精神の集中力が求められた。だからより切れ味のよい鋸を仕上げる"やまご"はそれだけ精神力が頑強である証拠でもあった。腰にはサッテと呼ぶ刃渡り一尺ほどの長鉈。長鉈の鞘には芳賀北雄と自分の名が記してある。そして両手で重量五㌔を超えるであろうか大きな鉞(まさかり=大斧)をもち、その鉞(まさかり)の長い柄を水平に掲げて左右のバランスを巧みに取りながら大木の上を素早く移動した。その速さはまるで戦国時代の忍者を思わせるほど身軽であった。頭は日本手拭で頬っかぶりしその上から戦時中の戦闘機乗り達が被っていたような耳覆いの付いた防寒用帽子を被った。上半身はセーターの上に作業服を着け更に熊の毛皮の裾の長いベストの様な上着を羽織っていた。それはまるで明治時代の頃を描いた映画に登場する東北の冬山の猟師さながらのいでたちである。ズボンは羅紗の布地の分厚い乗馬ズボンでその色は濃いグリーン。勿論下着は駱駝のシャツに股引だった。長鉈の結わえられた腰には更に五十センチ四方はあろうかと思われる大きな座布団のような熊の毛皮がぶら下げられていた。この熊の毛皮の座布団は木を挽く時に雪面に座して行うので臀部の体温で雪が溶けて着衣を濡らさないようにする為に付けている。また直接雪の上に座して居ると体が冷えるので其れを防ぐためでもある。足は妻の手編みのウールの太い毛糸で編んだ靴下に皮の防寒長靴。脛にゲートルを巻き付け其の上にこれもまた熊の毛皮の脚半を着けた。極寒の地のこの山ではこれだけの重装備でも厳しい寒さには十分ではなかった。それほど天北の山の中での気温は凄まじく低く更に風を伴なって吹き荒れる天北の冬は地獄だ。それは筆舌に尽し難くまさに凍てつく「縛れる(しばれる)」寒さである。

        
 北男は蝦夷松の大木の上を滑るように移動して最初の枝の処まで来ると枝に手を伸ばしてその枝を支えとして雪中へ落ちた。体は腰の上あたりまですっぽりと雪の中へ潜っている。枝に体を支えていなければもっと深く入り込んでしまう。この辺りの雪質は下の方までパウダースノーだ。そしてなにより深い。雪の下には2メートルを越す高さの熊笹が茂っているがその全てが深く雪に埋もれていて見えない。靴底が其の笹の上部の笹の葉の部分で辛うじて体を支えてそれ以上からだが雪にもぐりこむのを留めてくれる。笹がないと雪の中へ体がスッポリと潜ってしまうだろう。そんな不安定な足場の状態をものともせずに北男は鉞(まさかり)を両手で翳して右上から左へと一直線に振りぬいた。鉞(まさかり)が朝陽の煌めきを反射してキラリと一閃し蝦夷松の根元に近い方の一番太い幹の付け根めがけて唸った。
ビューと鋭く唸る鉞(まさかり)の日本刀のような刃(やいば)がスコッ!と小気味のよい音を響かせて山間の林の中を抜けていった。途端直径にして十五センチ以上あった太い枝が本体から千切れて飛んだ。払われた枝は宙空に停止しそしてゆっくりと重力に引き戻され切り離されたもとの場所へ勢いよく落下した。ゴンと鈍い音を放ち撥ねて飛び千切られた部分が雪の中へもぐった。まるで馬上の武将が一閃した相手の剣に不覚をとって馬上から滑り落ちてゆくようだ。それほどに見事な鉞(まさかり)捌きであった。まさに雪上の鉞(まさかり)の達人である。他の"やまご"のなかでも十センチを超えるような太い枝を鉞(まさかり)で一閃に切り落とすほどの者は希である。天北の"やまご"の北男は時に木の種類や足場の加減によっては幹の直径十五センチを超えるものでさえ一振りに払い落とすことができた。この山では鉞(まさかり)や鋸などの"やまご"の技術のどれをとっても北男を凌ぐ者はなかった。いや天北の"やまご"のどこの飯場にも北男を凌ぐ"やまご"はいない。そして北男はその"やまご"としての技量のみではなく心の部分でさえ他を卓越した男であった。その精神的な素地は北雄の生い立ちと無縁ではなく北雄を語る時に省くことが出来ない。北雄の生家は北海道にある。がその祖父の代以前は北関東の一大勢力の藩の名代を代々執り行ってきた家柄であった。そのために精神的な素養においては儒教・朱子学を基礎としての武士道精神を幼少より躾けられていた。それは北海道へ移住した跡も北雄の家の伝統として受け継がれ教え込まれた。論語の根幹の仁儀礼智忠考信そして敬を思想の根源として常にその範躊での立ち居振る舞いが求められて、そう生きることが当然と鍛えられ体に刻み込まれていた。だから常然「武士は食はねど高楊枝」欲が少ないことが美徳として信条の根幹を為していると言っても過言ではない。犠牲的精神や友愛の精神に満ち溢れた男であった。いわば日本の武士道が息づいているが如くそのものを見る様なものであった。だから何か集まりがあってその議題のなかで意見が別れ収拾がつきにくくなると自然と皆が北雄の意見を望んだ。他の者であれば単なるやせ我慢に聞こえてしまうことでも北雄が語ると皆一応に同意を得てしまう。無理を通さず道理を語る術を北雄は持っていた。そしてなによりも気骨の太さと人を援ける心が大きくて人に好かれていた。さらに当時としては生きるのに忙しくて誰も気に留めなかった自然環境保護の果たす重要な仕組みなどについても一過言持っていて山を大事にして山を心から自分たちの住処としていた。だから他の者たちが一様に北雄を信頼し北雄に学んだ。天北一の山を愛する男として北雄は天北の"やまご"の信頼と尊敬を得て慕われていた。 
 そんな北男にも唯一苦手なものがあった。山の天気だ。山の天気は急変する。予想を超えて激変し荒れる。北男は短波のラジオで船舶向けの気象速報を聞いてそれをウエザーチャートに書かなくても自分の頭の中で等圧線を描いて天気の予測ができるほど気象のことに長けて堪能であった。軍隊時代に受けた教育訓練の成果らしい。でもその短波ラジオから放送される気象速報を聞いていてさえ天北の山の気象状態は把握できなかった。山独特の自然変化の現象があって何が起きるか掴めない。常に自然との闘いは駆け引きが効かない。まして自然を侮ることなど絶対に許されなかった。いや誰も自然を侮れはしなかった。侮る者に待つ運命はは死以外には選択肢はなかった。それ程までに過酷な自然との対峙が天北で生きる男たちの生涯であった。其の生涯は厳しく辛いが好むと好まざるに関わらずそこで生きる事が男達の宿命であってその時代を生き抜くためのリスクを賭した戦いであった。それによって糧を得て家族を養い家長としての尊厳を示した。
愛する家族のために戦う。それはどの時代どんな場所でも同じだ。北雄も家族を愛した。だから地獄のような厳寒のこの山中で飄々として生き抜いていた。家族への愛を抱く男達には縛れると呼ぶほどのこの北の想像を超えた寒さも苦痛ではなかった。
 北男が二番目の枝を払おうと体を移動しかかった時に東の方から「ほぉーい」と今年の二番声が響いた。北男達の作業区の東側に入った村中国作の叫ぶ声であっだ。村中は北男のライバル的な存在でいつも北男を超えたいと思っていてそれに向かって努力する努力家でもあった。そして将棋や碁などは北男など赤子の手を捻るほど強者で北雄も一目置いている男だ。はっきり言って足元にも及ばないほど達人の域にあった。が勝ちに拘り過ぎるので勝負相手がいなくなりつつもあった。さみしいかな強すぎると言うことも人間関係を損なったりするよい例だ。そんな村中の木の倒れる音に続いて次々とドドーンと龍が吼えるように地響きが続く。北男は山路はまだかと少し気になって山路の現場を見やった。すると山路も北男を見ていて遠目ながら目があった。大きく手を振り山路も「ほぉーい」と叫んだ。山路の木は北男が先に倒していた大木と平行に為るように倒れてきて地響きとともに雪焔が北男を飲み込んだ。北男は自分の倒していた大木の陰に身を沈めて雪煙が収まるのをまった。雪煙が消えるまで数秒かかった。その間に北雄は上着の胸ポケットに手を入れタバコを一服して雪焔が過ぎるのを待った。勿論煙草はの銘柄は「しんせい(新生)」である。その間に次々と「ほーぉい」と天北の山中に威勢のよい"やまご"の掛け声が駆け抜けともに地響きがこだました。雪煙りが収まりかけた頃に山路が自分の倒した木の上を伝って北男に近づきつつあった。北男が体を起こすと同時に山路が「へぇー少尉殿こんなぶっといやつを一払いでやちまったんですか?」と北男の 掃った枝を指差しながら驚いていた。北男は「そんことに感心してくれるならそろそろ中尉と呼んでくれ。戦争が終わって十年以上。十年間少尉のままじゃ落ちこぼれだろ!」と冗談を返して山路に笑いかけた。其の北男の笑顔に山路は「いやーホントは山の大将だと思っているですけどね。」と恐縮そうな顔で言って自分の頭を帽子の上から撫でた。。山路は出稼ぎ組みで昨年春に3人目の子供が授かった恐妻マイホームパパである。将来の学費の心配をした妻の提案で出稼ぎを始めたらしい。今年が五度目の""やまご""生活だ。復員してすぐに幼なじみの愛妻を強引にクドイいたと酔うとすぐに自慢したがる。どうやら相当惚れているみたいである。
 二人とも枝打ちの作業に取り掛かって暫くすると山路がまた北男に語りかけた。「中尉殿は近衛師団だって人から聞いたンすけど?」と言いながら北男の方を覗った北男は一瞬で昇進を果たして"中尉"と呼ぶ山路に顔だけを向けて応えた「近衛兵と言えば響きがいいけど私の実務班は飯炊きと馬房管理」「まっ、馬糞処理班専従でしたから・・・」とそっけなく応えた。そんな北男の応えに山路は枝払いしている半切り状態の木に鋸をそのままに残して北男の側へ近づいてきた。「でも、やっぱりすごいですよ。当時は天皇の軍隊の近衛兵は日本男児の憧れでしたし・・・。それに近衛師団の合格基準を超えるのって至難の技?でしたし・・・・・。」と言いながら体半分雪に潜らせたまま北男の大木に体を摺り寄せた。そんな山路の様子に呆れ顔で北男は「でも同じ軍隊だから大勢の仲間達が戦地で倒れていった。近衛師団も陸海軍も・・・。みんな戦争の犠牲者ですよ・・・。軍隊なんか無い方がよいに決まってます。」と言い終えると両手に持っていた大斧を地面にたて其の柄の先端に右手の手のひらを乗せて其の上に左手を重ねた。そんな北男のやるせなさそうな軍隊無用論に山路は天皇の軍隊に居た人でも平和に対する希求はみんな同じなんだなと感じ入って目を大きく見開きながら北男を再び見入った。山路は北男に対する態度がこれまで以上に謙ってしまっていた。「なんかアダナを使えなくなってしまいました。」と言いながら雪の中で直立不動になった。北男は「軍隊の階級的呼称は今の時代にそぐわないし、われわれ軍隊経験者がそんな時代錯誤を助長すること自体がこれからの日本の将来に不必要なことですから。わたしとしても止めて貰いたいと思ってるんですよ。」と山路にいって最後に「日本の平和が本当に永遠であるためには・・・。」と付け加えた。山路は戦争が終わって十二年間自分の胸の内に在っても何か後ろめたくて言い出せないで居た本心が北男の言葉に共鳴して胸の奥のツッカエ棒がガクンと音を立ててはずれたのを感じた。これまで山路も戦争の犠牲になるのはもう嫌だ。と声を大にして言いたかったが戦争で犠牲になっっていった友や多くの人々のことを思うとなんとなく後ろめたさの様なものに捉われて大っぴらに公言することが憚れるような気持ちが山路の心の中に頑な戸を閉ざしていた、何より日本人として国を裏切る行為に繋がりそうな懸念を捨てきれずにいた。それは山路にとっては今でも恥ずべき行為として存在して時代の新しい風を感じつつも其の風を自分が素直に享受することへの後ろめたさがあった。さまざまな過去の悲惨な風景が山路の心の中で時折吹き荒れていて其の拘りを捨て切れなかった。天皇を只そのまま天皇と呼ぶことさえできず必ず天皇陛下と陛下を付して口にした。心の奥底では神格天皇を否定する自分がいるのを認識できるがそれを人前で公然と口にすることには抵抗があって言い出せないでいた。でもいま皇軍兵士であった北男の口から平和のためには過去を切り捨てろと言われて自分が心に内在している帝国の軍国的な教育思想と新しく受け入れようと思う自由思想との隔絶感の狭間で山路の心を閉ざしていた壁が崩れた。これからの日本の思想背景に帝国主義はいらない。面と向かって元皇軍兵士からの応えは山路にとって戦時の天皇陛下や上官達の命令によって自由気ままにものを言うことを制限されこの十数年の歳月その帝国の軍事教育思想を引きずりながら生きていた。北男の言葉はそんな山路の不器用な純粋さに新らしい新鮮でこれまで以上に透明感のある呼び水となって心に染み入ってくる。今やっと山路は死んでいった戦友たち達の為自分が何を感じ何を目標にして生きなければいけないのかを知りえてた気がした。すべての悪霊の呪縛から解き放たれれたような爽快な開放感につつまれた。山路は感傷が込み上げ少し涙ぐんでいた。しかし気を取り直して自分の心に内在した闇に明かりを灯してくれた北男に感謝したかった。自分の胸の中で膨らませていた真の平和への憧憬を自分の素直な心情として公言できるのだと言う確かな解答を与えてくれた北男に尊敬の念と感謝をこめて「北さんありがとう」と低く呟いた。北男は山路の下の瞼にたっぷりと溢れ今にも零れ落ちそうな山路の涙の意味を理解して山路の瞳を見つめながら「戦争は悲惨だったなぁ!」と言って大木を間にしたまま山路の小刻みに震える手を自分の手袋をはずして握った。途端山路はひざを落とし自分も分厚い手袋をはずした。手袋をはずした山路の手は明らかに農夫の土と戦うごつい手であった。そのごつい手の指先が北男の差し出す手をさぐる。北雄の右掌に触れた山路の指は両手で北雄の手を包み込んで強く握り返した。下を向いたまま歯を食いしばってクウーッと微かに呻き声を洩らしながら山路は嗚咽した。山路の熱い熱い胸の奥底の帰らぬ者達への寂寥の念が泉のように湧き上がって涙となって溢れ零れて雪上に染み込んで大地へ還ってゆく。その涙が次々に戦場に散った若き彼らの魂が吸い込まれるように一滴二滴と後追おう。それほどまで山路の心に巣くった戦争の悲劇や帝国の赤子教育が呪縛となって山路の心を苦悩へと陥れ逃れ出ることを拒んでいた。嫌逃避できるものではなかった。それは誰もがそうであった。戦死した友を見捨てることと同じ思いであった。    彼のように純粋で無垢な時期に其の体験を受けた者たちの大半が其の思いを断ち切るだけのことが簡単にはできないでいた。非常な努力と困難を要しなければ克服しえないにがい苦しい体験であった。長い年月を要しても完全に取り除くことはできない。忘れたと思っていても首を持ち上げる。忘れたいと望んでも深く脳裏に刻まれ離れることなどない。一度見た悪夢はその人間に一生重く熨しかかり心を啄ばんでゆく。とてつもない否人格化を強制された時代を渡った心の闇は完全には拭い難い。彼らの心に黒い汚点のままいつまでも消えなかった。
 
 其の日は仕事始めと言うこともあって午後からは作業がない。予定は会社の衛生管理担当者の宿舎生活心得等の講習が一時間ほど入っていた。飯場は飯しの場と書くが共同の宿泊施設で"やまご"仲間のこの地区の全員二十名ほどが同じ屋根の下で寝食を三ヶ月から四ヵ月に渉り共にする。その間各自が厳格に衛生状態を管理しなければ感染症や伝染病で全員の身に危害が及ぶこともあったりする。其の防止策として最低限の衛生観念の周知を図るためのものだ。講師は親会社の住菱北海道原生林開発株式会社から出向いてくる。天北地区には二十箇所以上の作業区があって合計四〇〇人以上の"やまご"が飯場生活をしている。          つづく・・・。







《追記》

このブログ「故芳賀北雄追悼の碑・生誕八十八年(三十三回忌)記念」は管理人:芳賀宏光の父:芳賀北雄の三十三回忌の追悼を意図して過去の親孝行が叶わなかった事を償うためのものです。内容に時代考証、社会風俗等で私の記憶の失落、思い込みやかん違いなど多くあります。また、個人を偲ぶべく敬い、崇め、弔うことを本旨とし最大限脚色しています。
 これをご指摘して戴ければ本意です。ただ誹謗中傷の感をいだく方は本来このブログをお読み頂かないほうが適切であるとご回答させていただます。
 たまたま、高確率を得て故人および"やまご(yamago)"の職業、生活など過去の事象を少しでもご記憶の方がご訪問していただけた時は過去を詳しく知り、後世へ伝承するための絶好の機会到来とお考え頂きご面倒とは思いますがメールまたは書簡等でご連絡・ご教授をいただきたく平伏してお願いいたします。それらの貴重なご意見等を鑑み文中の訂正・削除・加筆を行いより正しい記録となるように十分な考察を繰り返したいと考えています。その機会に遭遇できることを願っています。このブログをご訪問いただき多大に光栄の至りです。末文ではありますが御皆様方のご健康とご長寿を心よりご祈念させていただきます。チャーガンジューで長生きシミソーリィヨー(沖縄の言葉で[
元気で長生きしてください!]
という意味です。)ありがとうございました。  管理人:芳賀宏光 メール宛先:kitao-88@nifmail.jp

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